




ハリネズミがほんの少しだけ慣れてきた。
小さくちぎったチーズをつまんであげると、
くんくんにおいを嗅いでぱくっとくわえ、もしゃもしゃお食事。
雑食で何でも食べるみたい。
でも今は主に子犬の離乳食と子猫用のキャットフードと虫(?)。
家に来た当日はずっとおびえていて、針を逆立てっぱなし。
刺さると危ないので、初日は私がお食事の世話をする。
指のにおいを覚えさせるといいと聞いて「ほ~ら、モリー」と
指を出したら、いきなりパクッ。 それチーズじゃないから(汗)
小さな2つの歯型の穴があいた。
でも誰も危害を与えないことがわかると少し安心した様子。
丸くなって寝ているところは、まるで「ゴマのおはぎ」みたい。
今日はスタッフの幼稚園児の子供が見に来て、
一緒につりのえさみたいな生きている虫を割り箸でつまんであげた。
(もう既にこれを読んだだけで拒絶反応起こしてます? あなた・・・)
早く抱っこしたいけれど、まだとても無理。
指が体に触れただけで怒って、
いきなり顔の半分から後ろまで全身「たわし」になっちゃう。
こらこら、かわいいんだから、そんな顔しないのっ!
友人がバナナダイエットで6キロ痩せた。
うらやましい・・・もちろん即真似して実行!
ところがバナナだけの朝食は思いのほか、おなかが減る。
10時には我慢できなくなって、いつもどおりの朝食。
結局、「バナナ2本と普通の朝食」という新朝食習慣が身に付いた。
増量・・・
「こんなことやってる場合じゃない」という理由で
端に追いやられてしまう作業・・・
それが年々多くなってきているような気がする。
たいてい「こんなこと」は私にとって楽しく出来ることだったりするのだけど。
で、取って代わるのは、「やらなければならない」という尤もな事柄。
非日常のなかで「インスピレーション」を高めたい、なんて
そんなことを言っているのではないの。
表現するのが仕事なので、
「日常に居て感性が働かないから、非日常に出かけて感性を高めたい」なんて、
そんな自分がいたとしたら、都合の良い「逃げ」じゃないかな?
そういうことではなくて・・・。
もっと、当たり前の顔をしてやってくる「やらなければならないこと」にたいして、
敏感になったほうがいいんじゃないかな。
「当たり前にやったほうが良いこと」って、優先順位のチェックもなくて、
それはやったほうが良いに決まってるでしょ、ってなってしまう。
生徒作品展が終わって一段落したら一度初心に戻って、
「なんとなくやったほうが良いこと」を整理してみよう。
中心になって動いているスタッフ達も同じことを感じている様子。
でも先ずは20日からの作品展・・・これが優先順位一番なのは間違いないですね!
元気の出る力作ばかりです。
ハリネズミがやってきた!
困った・・・かわいすぎる。
鼻がちょこっと長くて、瞳が真っ黒でつぶらで
とってもとってもキュートな女の子なのだ。
今日長女の高校のお友達とママが連れてきてくれ、
わざわざえさの作り方まで実演して譲り渡してくれた。
もう乳離れできていてだっこも出来るみたいだが、
可愛そうに今日はまだ新しい家族に警戒して怖がっていて、
少しでも手が触れるとフーッと怒ってまん丸の「針ボール」になってしまう。
水槽にペット用のヒーターを入れて、もぐれるようにマットも敷いたけど、
パパとママのいない新しいおうちになかなか慣れない。
大丈夫かな?
可愛いものって、同時に心配・・・。
とりあえず新しい家族のご紹介でした!
夫と10才の長男は映画好き。二人でよくDVDを借りてくる。
ただし私の苦手なホラーとか冒険系・・・。
うっかり付き合って見始めてしまうと大変。
途中で見るのをやめると気になって夢見が悪いし、
最後まで見たら見たでまた気分が悪い。
「もっと穏やかなのにしようよ」と提案するが
借りるとき同行しない私の意見は反映されない。
もう少し年を重ねたら夫と二人で映画館へ、なんて思うが
大丈夫だろうか?
映画館までは一緒に行けるかもしれないけど、
その先は別々だったりして・・・。
長女が高校から帰ってくるなり
「ママ! 今日のお弁当の玉子焼きすっごく美味しかったの!!」
(いつもはどうなの・・・・???)
「いつもあれと同じにして!」
そんなこと言われたって偶然の産物だもの、
一か八か、食べてみてのお楽しみなのよ。
ハリネズミが来るかもしれない。
高1の長女のお友達が、生まれたメスのハリネズミを
譲ってくれることになって、
「パパは自分で世話するならいいって」と
外堀から埋めてきた。
ケイタイで見せてもらったが、瞳が真っ黒で、
おなかの毛が白くてかわいい。
つい「自分で世話するなら・・・」と言ってしまった。
あかちゃんはずるい。
動物も人間も、その可愛さの前にはみんな無力になっちゃう。
今日スタッフが1才と2ヶ月の女の子を連れて、
仕事の打ち合わせに立ち寄った。
こちらも、どうしようもなくか~わ~いい!
スタッフ同士打ち合わせする間、私は孫とおばあちゃんのように
絵本で遊んでいた。
自分の子も含めて、いつもスタッフの誰かが小さな子を抱えていて、
子供の成長を見ると「ああ、カラコレスもあれから○年たったなあ」、
なんて思う。
いつも撮影をお願いしているカメラマンさんのスタジオにおじゃまする。
撮影の小道具が積みあがっているスタジオが、今日はなんだかすっきり。
「模様替えですか?」
「いや~、坂本さんが倉庫のいらないものビシバシ捨てたって話に
触発されちゃってね。もう何年も使ってないものを捨て始めてるの。」
この間おじゃましたときより、心なしか元気に見える。
不思議だけれど、「捨てる」ことは「増やす」ことにくらべて
健康的なのだと思う。
「捨てる」ことで得るのは「新たな可能性」じゃないかと思う。
同様に「固執」して失うものも「可能性」だと思う。
私に周期的に訪れる「捨てたい病」は、最初、形のある「モノ」から始まって、
やがて「人との付き合い」や「古くなって硬直した仕組み」などなど、
形のないものへと移っていく。
体力や集中力といった「若さ」を測るバロメーターは色々あるけれど、
私にとって「捨てる」ことが出来なくなった時は、
可能性を自ずから放棄したとき、「もう若くない時」だと思っている。
でもこれって実年齢と関係ないもん!
90歳の好奇心満々のおばあちゃんがいたっていいじゃない?
10才の長男が体中にじんましん。
かゆみ止めを塗って様子を見る。
最初日本地図くらいだったのが広がって世界地図に・・・。
おでこにも出来始めた。
給食に出たというお魚の食べあわせが悪かったのかな。
「明日の社会見学どうする?」
「おでこのが四国地方くらいに小さくなったら行く」
地図の分布次第でお医者さんへ連れて行くか決めるわたし。
・・・夜中に起きたら地図が全部ひとつにつながってて、
これはもうお医者さんに行かないとだめね。
子供の容態で夜中に起きるのは久しぶりだなあと、
変なところで感慨にふける。
「あっ変わってる・・・」
今日、半年前とは変わっている自分に気づいた。
ここ1年ほど自分の課題として、
意識して取り組んできていたことがあった。
その進展を判断する基準もなくて、
「まあ変わればなにより。変わらなくても仕方がないか」くらいの気持ちだった。
2日前のブログで「自分を変えようと思っても無理」と書いたが、
それは本質的な部分のこと。
もうひとつ外側の世界で改革を試みて(大げさな!)いたわけです。
今日、半年前のある日と同じシチュエーションに身を置いてみて、
自分の感じ方がかなりかわっているのに気が付いた。
と同時に、身の回りで起こっていることが、
新たな展開を迎えていることもわかった。
不確かな自分に周りが影響されているのがとても不思議ではあるけれど、
誰にとっても、「自分と周りの関係」はそういうことなのかも・・・。
自己の投影?


