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カラコレス代表の坂本裕美のブログです。
日々感じることや暮らしのこと、北欧・デンマークでの素材探しの旅やアーティストショップ巡り、さらにデザインのひらめきなど、カラコレスの舞台裏をご紹介します。
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あなたの夢は?

「私にはこうなりたいっていう夢がないことがわかった。」
友人がしみじみ?口にした。

「『夢をかなえるゾウ』と言う本を読んで、
そのあと小栗旬の演じる同じドラマを見たらはまっちゃったの。
そこで言われてること1ヶ月やってるの。
たとえばトイレを毎日きれいに掃除する、とか
人の成功を助けるとか・・・」

「夢をかなえるゾウ」はベストセラーでざっと読んだ。
テレビはほとんど見ないし、
今見てるドラマが唯一「ブラッディ・マンデイ」の私には
そのドラマのことはわからないが、彼女はとにかく感化されたのだ。

「でね、1ヶ月続けても何も起こらないの。
そのうちに、私にはこうなりたいっていう夢がないことに気が付いたの。
だから何も変わらないんだって。
私何のためにこんなことしてるんだろうって・・・」

「もう夢がかなっているんじゃないの?」と私。

私から見た彼女はきちんと自分の枠を意識して持っていて
仕事もその枠からはみ出さないようにコントロールしているし、
多趣味の一つひとつもプロ顔負け、家事も育児もそつなくこなす有能な女性。
「ていねいに暮らす」を体現するとしたら、彼女のようになるのではないかと
日ごろ思っている。バランスの悪い私とは雲泥の差なのだ。

だから、彼女が「夢を~」に感化されて動いたことが意外だった。

「こうなりたいという夢はなくても、
こうありたいという状況はかなっているのかもね。
それに気づくのに1ヶ月も掛かったんだ、私」と彼女。

「夢」って「幸せの青い鳥」のようなイメージかな。
「今」の延長にあるような気がする。
「今」の自分にかけらもないことを「夢」に持ってくるのは
虫が良すぎるようで気が引ける。

さてでは「あなたの夢は?」と問われたら・・・
やっぱり「今の継続」って答えるんじゃないかな。

がんばってお客様に高い付加価値を提供して、小さいながらも雇用も創出して、
次への挑戦をちょこっとずつして・・・この循環を継続すること。

「こうなりたい」ではなくて「こうあり続けたい」と望むのは、
私もその友人と一緒みたい。

忙しさは可能性の裏返し

「まったく年々忙しくなるわ。
昔のお年寄りなんて、もう私の年には
すっかりおばあちゃんを決め込んでいたのに、どうなってるの?」
そういって飛び回っているのは母。

70才になってもなお元気で、実家と長野のこの家とをひんぱんに行き来し、
自分のカルチャーや、家のこと、私が留守にするときの孫の面倒から何から・・・
すごい勢いでこなしている。
父も然り。
両親のパワフルさの前には私の影などないにも等しい。

確かに母の言うとおり。
小さいころよく祖母に手を引かれ、
近所の文房具屋さんにクレヨンや花火を買ってもらいに出かけたが、
あのときの祖母の年齢は、今の私でさえたいして違わないのだ。

今の私たちの忙しさは可能性がたくさんになったから?

これだけ何でも出来る時代に生まれて、
持っている可能性に挑戦しなかったら、なんだか悪いような気がするもの。
先人なんて大げさなこと言う前に、祖父や祖母にね・・・。

失礼しました!

とにかく人の顔をおぼえるのが苦手。

学校のPTAでも、よそのお母さんに
「○年のとき同じクラスでしたよね」などと言われるが
さっぱり覚えていない。

作品展の時にはこれが困ったことになる。

長野県内にいくつかある出先教室には
専任の講師の先生が出向いて教えているので、
私が直接指導をすることはほとんどない。
新しく入った生徒さんと顔をあわせてもわからないことがあるのだ。

作品の前で熱心に見ている方に
「ご興味おありでしたら、体験も出来ますよ」と言うと
「坂本先生ですね。こんにちは。この作品私が作りました。」などといわれ
「きゃー、ごめんなさい!」(赤面)

でも「あなたが○澤○世さん?はじめまして」と
名前のほうはしっかりフルネームで覚えているので意外な顔をされる。

スクールのニュースレターの発送の確認や、
毎年必ず生徒さん全員に手書きで送るクリスマスカード(あっ今年もそろそろだわ!)
のおかげで、名前のほうは完璧に覚えているのだ。
顔と名前が一致してないだけで。

今年は幸いにもわからない生徒さんは居なかったわ、と思った矢先・・・。
「坂本さん、こんにちは」

作品展会場のデパートで商品を見ていた私に、一人の制服姿の店員さんが声を掛けてきた。
ニコニコしている。(私はこの人をよく知っているような気がする)
どこでお会いした生徒さん、それともPTAのお母さん?
めまぐるしく記憶が飛び交うけれど思い出せない。

「私ですよ、○○です。変装してたからわからなかったでしょ」

うわ~、そっちでしたか! 一軒おいたお隣の奥様。
それにしてもゴミ出しや公園の草取りでいつもお会いしてるのに。

まったく私の記憶力って全然機能してないことが判明した・・・

「捨てること」イコール「可能性を拾うこと」

いつも撮影をお願いしているカメラマンさんのスタジオにおじゃまする。
撮影の小道具が積みあがっているスタジオが、今日はなんだかすっきり。

「模様替えですか?」
「いや~、坂本さんが倉庫のいらないものビシバシ捨てたって話に
触発されちゃってね。もう何年も使ってないものを捨て始めてるの。」

この間おじゃましたときより、心なしか元気に見える。

不思議だけれど、「捨てる」ことは「増やす」ことにくらべて
健康的なのだと思う。

「捨てる」ことで得るのは「新たな可能性」じゃないかと思う。
同様に「固執」して失うものも「可能性」だと思う。

私に周期的に訪れる「捨てたい病」は、最初、形のある「モノ」から始まって、
やがて「人との付き合い」や「古くなって硬直した仕組み」などなど、
形のないものへと移っていく。

体力や集中力といった「若さ」を測るバロメーターは色々あるけれど、
私にとって「捨てる」ことが出来なくなった時は、
可能性を自ずから放棄したとき、「もう若くない時」だと思っている。

でもこれって実年齢と関係ないもん!
90歳の好奇心満々のおばあちゃんがいたっていいじゃない?

不確かな自分と周りの関係

「あっ変わってる・・・」
今日、半年前とは変わっている自分に気づいた。

ここ1年ほど自分の課題として、
意識して取り組んできていたことがあった。

その進展を判断する基準もなくて、
「まあ変わればなにより。変わらなくても仕方がないか」くらいの気持ちだった。

2日前のブログで「自分を変えようと思っても無理」と書いたが、
それは本質的な部分のこと。
もうひとつ外側の世界で改革を試みて(大げさな!)いたわけです。

今日、半年前のある日と同じシチュエーションに身を置いてみて、
自分の感じ方がかなりかわっているのに気が付いた。

と同時に、身の回りで起こっていることが、
新たな展開を迎えていることもわかった。

不確かな自分に周りが影響されているのがとても不思議ではあるけれど、
誰にとっても、「自分と周りの関係」はそういうことなのかも・・・。

自己の投影?

同級会

何年ぶりかの中学の同級会。
恩師をはじめ20名近くが集まった。

47才の大人たちが最初は近況報告などしているが、
いつの間にか14.15才の子供時代に戻ってしまうのが
同級会の不思議なところ。

私も含めてだが、キャラクターは子供のころと変わらないのね。
一応世間の荒波?にもまれて処世術は身につけているけれど
みんなあのころの性格そのまま。

自分を変えようなんて思うのは無駄だなあと、
周りを見て、自分を見てつくづく思った。

それから一人、亡くなってしまった同級生がいて
それがとっても悲しかった。

脚立の脚は2本、3本、4本のどれが一番安全でしょう?

植木屋さんのお話は自然相手のお仕事のせいか、
いつも説得力があっておもしろい。

今日は庭の白樺に支柱を立てるついでに、
狭い庭のあちこちを剪定してもらった。

そこで使っている脚立が、片方ははしごでもう片方が支柱1本の計3本足。
なんだか見ていると頼りがいがないが、
植木屋さんに言わせると「普通の4本足の脚立は一番不安定。
地面の凹凸をもろに受けるから。

3本足は安定するんだよ。植木屋はみんな3本足の脚立だよ。
だけどほんとにしっかりしているのは実ははしごなの。」

なるほど、本体の木を支柱にはしごを掛ければ3本足の脚立と同じ効果。
その上自分の体重がかかることで却ってロックされることになるわけね。

ふむふむ。
今月19日にはながの東急で翌日から始まる生徒作品展の搬入がある。
階段部分の壁には3本足の脚立で飾りつけるが、段差にあわせて
少しずつ短く調整した支柱が実に心もとなく、
誰が脚立に乗るかで「なでしこカラコレス」のスタッフはすでにもめてる(?)

「大丈夫、3本足の脚立は安全なのよ! 植木屋さんが言ってたもん。」
最初のミーティングでそう励ましとこう。

じゃあ、先生どうぞって言われたらどうしよう・・・汗


上澄みの問題とその下の問題

本当のことを伝えて相手を怒らせてしまうことが、たま~にある。


だけど、仕事の話では真実と思うことを伝えるところから
始まるんじゃないかと、まだ思っている。


人の話を上手に聞くのは難しい。


これこれについて相談していると思って話していても
それは上澄みの問題で、その下にはもっと別の不安が隠れていたりする。


うっかり上澄みの話にアドバイスをもらったりすると
本質的な問題まで届かないまま話がそれていってしまう。


このごろ自分自身の問題では上澄みとその下に2段の構造があることが
だんだんわかってきた。


人とのやり取りを通して
「この部分の不安を顕在化したくて話していたんだ」
というのがわかるようになってきた。
時々だけれど。


ただそれも、人の話を聞いているときにはわからない。
怒らせてしまった相手にも、2段の構造があったのかな・・・
なんて思う。

先生の成績表

何にでも先生といわれる人がいて
その人の指導の下に勉強するのが手っ取り早いと思うけど
ふつう先生には点数が付いていないから
自分が何点の先生に指導されているのかわからない。


先生も自分に点数はつけないから
狭い世界の中で「先生と生徒」あるいは「師と弟子?」は
「こんなものかな」という自己満足の関係に
なってしまうのではないかな?


それを打開するには先生も生徒も常に勉強するしかないけど、
もし先生が勉強したり研究したりしてくれないのなら、
仕方がないですね、生徒は先生から離れてしまうのでしょうね。


これは「信じてついていく」とはまた別の次元のお話。
いろいろな場面で、自分が「先生」と「生徒」どちらの役にもなりうると
肝に銘じて・・・。

普通の芽であり続けるように

「土用芽」という言葉を知りました。


土用のころに成長する植物の芽の事だそう。
通常植物の葉は前年から蓄えてきた栄養分を使って
春からゆっくり成長し花芽をつけます。


それに対し「土用芽」は春から伸びた葉の養分を使って
夏に一気に伸びる芽のことを言うのだそうです。
そういえば刈り込んだ庭木にぴょんと一本伸びた芽がありますよね。


この土用芽には花芽が付かないそうです。


これってとっても示唆に富んでいるなあって一人納得。
だって、ほっとするじゃないですか、
順を踏んでゆっくり成長したところに花芽がついて
一気に飛ばして?伸びてきた葉に花芽が付かないなんて。


スローテンポでひとつずつしか進めない自分の弁護に使っちゃお!
土用芽にならないように。普通の芽であり続けるように。


こんな大事なことを教えてくださったのは
今回のイベントの「お父さんのための庭木の剪定講座」講師の造園会社の社長さん。
蓋を開けたら「お父さん」ではなくて「お母さん」に盛況でしたが・・・。


私も自分のレッスンを抜け出しちょこっと拝聴。
楽しくていろいろ勉強になって、次回はもっとゆっくり聞きたいと思いました。


さて北野建設モデルハウス&トステムショールーム主催の
「秋のわくわくまつり」2日目。
昨日に引き続きたくさんの来場者で大盛況でした。
お越しくださった皆様、ありがとうございました。

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